鳴門の阿波踊り

鳴門の阿波踊り

鳴門市の阿波おどりは県下の先陣を切って3日間行われ、毎日約30連が大乱舞。 県内外のからの見物客約8万人を魅了する県内有数の祭りです。

鳴門の阿波踊り

有料演舞場、鳴門駅から西側に伸びる大通りに東西に2つ設置。演舞場周辺には模擬店が並び、毎年多くの人で賑わう。
「鳴門市阿波おどり」としては、昭和20年代から30年代にかけて徳島市と同時期に旧盆に開かれたのが始まりだが、明治の初年代には既に阿波おどりが庶民の娯楽として親しまれたものだと推測できる文献があります。 なぜ鳴門で阿波おどりがされるようになったのか、いつ頃から始まったものなのか、それを特定する有力な文献などはまだ見つかっていませんが、その歴史は長いものだと伺えます。

そもそも阿波踊りって?

【阿波おどり】って知ってますか?と県外の方に聞くと「テレビで見たことあるよ!」「動きが揃った踊りが凄いよね」「踊りが綺麗で見てて楽しい」と言ってもらえる程全国的にも有名になった、日本三大盆踊りの1つ『徳島の阿波おどり』ですが・・・みなさんはその起源・歴史をご存知ですか?
阿波おどりの起源と言われる説はいくつかありますが、その中でも特に有力な説がこの3つと言われています。

◆徳島城の築城起源説
天上15年(1587)に徳島を統治していた蜂須賀公が徳島城の築城を祝い、城内に町人たちを招いて踊らせたという説。
◆精霊踊り説
旧暦の7月に行われていた精霊踊りが起源という説。
◆古事に記された文献説
「三好記」という古事に記された、天上6年(1578)に勝瑞城(板野群藍住町)で十河という人物が盆行事に京から猿楽座を招いて、盛大な風流踊りを催したことからという説。

踊りの変化

年代を経ていくと、踊りや衣装に変化がみられるようになりました。
戦前は人数も5~10人と少なく、今のような集団進行型ではなかったが、戦後の昭和21年から踊り子たちの衣装が美しく、また健康的なお色気を発散させた女踊りが見られるようになりました。グループも50人前後へと大型なものへと今のスタイルへ変化。

昭和33年の演舞場は市役所前広場に設置され、長さ55メートル、幅7メートルのS字型の桟敷が組まれていました。 桟敷席は板張りのゴザを敷いた簡素なもので、300人程度が座れる広さであった為、もっぱら見物客も立ったまま見学していたそう。
翌34年には見物しやすいようにコの字型の桟敷席へ変更。大通りを提灯で灯し、華やかさを演出。 そして徳島市から有名連11連を招くなどの取り組みを行ったが、日程や経費の問題などを理由に2年限りで中止となった。

衰退と復活

今では県内外から多くの見物客が集まり、海外でも注目され始めた鳴門市阿波おどり。
ですがそんな賑わいが嘘のように、一時期衰退していた時期があったそう。 昭和30年代、徳島市の阿波おどりは観光客も増え、飛躍的に隆盛期を迎えた。その結果、徳島市内に阿波おどり施設が充実し、郡部の連や踊り子、観光客が減ってしまったのだ。

昭和40年、衰退の道を辿る鳴門市阿波おどりに歯止めを掛けようと、この年の3月に新体制となって発足した市観光協会が阿波おどりを主催することになり、いろいろな企画を持ち出し立ち上がった。
県外客を誘致するために初めて「おどりポスター」が500部とチラシ2万部が製作され、宣伝活動も精力的に行った。
6月からは京阪神や山陽方面に観光宣伝隊を送り込み、観光客誘致に努め、踊り開催日は渦潮が見ごろの旧盆にあたる8月10~12日の3日間に決定。 そして新たに、市道南浜・木津線の鳴門税務署前付近に演舞場を作った。
また、5年ぶりに徳島市から有名連13連を招待するなど、桟敷席の改善策が実り、前年の2倍を超える110連が踊り込み、有料入場者は3800人に上った。
当時の徳島新聞でも「夕暮れとともに競演場がマンモス桟敷も立ち見席も満員。踊り子も地元の鳴門連・うず巻連など20連と徳島から招いた阿呆連・天水連などが出て乱舞の渦を繰り広げた。県外客はもちろん、徳島市からバスで繰りこんだ見物客も多く、この夜の人では2万人であった」と報じた。
翌41年には入場料を200円に値上げしたにも関わらず連日大盛況だった。
これが鳴門市阿波おどりが発展したその一歩だ。

鳴門市阿波踊りの世界進出

1972年にフランスのディジョンで「ブドウまつり国際伝統祭」が開催され、計12ヶ国が参加した踊りコンクールでは見事2位の「銀の首飾り賞」を受賞し、初めての海外進出を成功させた。

そのほか、ドイツの姉妹都市リューネブルク市や、中国の湖南省張家界市でも活躍を見せた。
リズムの良い阿波おどりはウケが良